投稿テスト話

遺品整理という仕事に従事していると、ごく稀に、決して開けてはならない「パンドラの箱」に触れてしまうことがある。
 三ヶ月前、私が請け負った案件がまさにそれだった。現場は北関東の山間部、地図上では辛うじて集落としての体を成しているものの、実態は廃村に近い限界集落にある旧家だ。
 依頼主は、その家の長男で、現在は都内で暮らす四十代の男性・佐藤氏(仮名)。数年前に父親が孤独死し、数年の放置期間を経て、ようやく家屋ごと更地にする決心がついたのだという。

現地に到着した私を迎えたのは、高い塀に囲まれた純和風の屋敷だった。庭には手入れの行き届かなくなった松が、まるで首を吊った老人のように無残に枝を垂れ下げ、地面には腐った実と落ち葉が黒いシミを作っている。
 玄関の重い引き戸を開け、家の中に入った瞬間、喉の奥がヒリついた。
 古い家特有の「重い湿気」の匂い。だが、それだけではない。長年締め切られた空間で熟成されたカビの胞子に、古釘の鉄錆と、どこか生魚の内臓が腐敗したような、甘ったるく生臭い臭気が混じり合っている。肺に入れるたびに、内側からカビが生えてきそうな、生理的な拒絶感を覚える空気だった。

「基本的には全て廃棄で構いません。金目のものはもうありませんから」  立ち会いのもと、佐藤氏は淡々と語った。だが、母屋の奥にある重厚な蔵の前を通った時だけ、彼の足が止まった。
「……ただ、この蔵にあるものだけは、あまり中身を確認せずに、箱ごとトラックに放り込んでください。特に、ビデオテープの類は。見ない方がいい」
 それは警告というより、諦念を含んだ独り言のように聞こえた。彼の顔色は、蔵の漆喰のように白く、目の下には深い隈が刻まれていた。

作業三日目。私は埃とカビに塗れながら、その蔵の二階を片付けていた。  窓の少ない蔵の中は、昼間でも薄暗く、空気が澱んでいる。棚の隅に、古ぼけた段ボール箱があった。中には数十本のベータのビデオテープが無造作に放り込まれている。
 その中に一本だけ、背表紙のラベルが剥がれ落ち、プラスチックのケースに直接、赤黒い油性マジックで殴り書きされたテープがあった。
『咬の記録』
 依頼主の忠告は頭にあった。しかし、連日の作業による疲労と、この屋敷に漂う異常な気配が、私の判断力を鈍らせていたのかもしれない。私は、動作確認のために持ち込んでいたポータブル再生機のスロットに、吸い込まれるようにそのテープを差し込んだ。

駆動音が唸り、画面の砂嵐が晴れる。  映し出されたのは、昭和後期特有の、解像度の低いザラついた映像だった。場所は、今私が作業をしているこの屋敷の居間だ。
 大きなちゃぶ台を囲み、祖父らしき老人、父、母、そしてまだ小学生くらいの幼い佐藤氏が座っている。
 だが、そこには「団欒」などという温かい空気は微塵もなかった。
 全員が、何も載っていない空の皿を前に、蝋人形のように微動だにせず座っている。会話はない。テレビの音もしない。
 聞こえるのは、マイクが拾う「サーッ」という空調のホワイトノイズと、誰かの荒い鼻息だけ。
 異常な光景だった。彼らの視線は、料理でも、互いの顔でもなく、ただ虚空の一点を見つめている。
 その時だった。

『カチッ』

映像の中から、乾いた、硬質な音が響いた。
 古いこたつのスイッチを入れたような音。すると、ちゃぶ台を囲む四人の首が、油の切れた機械のように、ゆっくりと、ぎこちなく真下を向いた。そのまま十秒ほど静止し、再びゆっくりと元の位置へ首を戻す。
 数秒後、再び『カチッ』と鳴る。
 今度は、先ほどよりも明らかに速度が速い。ガクッと顎を下げ、そして戻る。
 次第に、その間隔は短くなっていく。
『カチッ』『カチッ』
 音のテンポが上がり、四人の首が上下する速度も常軌を逸していく。カチカチカチカチという連続音に合わせ、残像が見えるほどの速度で首を振り続ける家族。人間離れしたその反復運動は、見ていてひどく酔いそうになる。
 そして、ひときわ大きな『カチッ』という音が響いた。
 次の瞬間、ピタリと動きが止まった。
 まるで脳天から吊り下げていた糸が同時に断ち切られたような、重力に身を任せただけの不自然な落下。顎を胸に沈めたまま、四人は完全に硬直した。

やがて、映像の中から音が聞こえ始めた。
「クチャ、ピチャ、グチャ……」
 何かが濡れた生肉を執拗に噛み潰すような、粘度の高い咀嚼音。
 その音に合わせて、画面の中の祖父がゆっくりと顔を上げた。
 祖父の口元は、どろりとした赤黒い液体で濡れ、顎が外れんばかりに大きく開かれている。その口腔内は、人間のものではない「何か」で埋め尽くされていた。
 祖父は震える指を、自分の口の奥深くへ、喉を突くほどに乱暴に差し込んだ。
「ブチッ、ブチブチッ」
 肉の繊維が強引に引き剥がされる、湿った音が静寂を破る。
 彼が引き抜いたのは、根元に「赤い神経の束」と肉片をぶら下げた、異常に長い、半透明の牙だった。
 それは人間の歯ではない。深海魚の牙のような、あるいは節足動物の棘を思わせる、鋭利で冒涜的な形状。
 祖父はそれを、床板の隙間へと、慈しむように落とし込んだ。
 暗がりから「ピチャッ」と、何かが粘膜でそれを受け取り、飲み込むような音がした。

私は猛烈な吐き気を催し、停止ボタンを押そうと手を伸ばした。
 だが、指が動かない。金縛りのように、筋肉が硬直している。
 画面の中の祖父が、ゆっくりと顔を上げ、血に染まった指でカメラのレンズを……つまり、画面を見つめる「私」を真っ直ぐに指差した。
 祖父の濁った瞳が、私を捕らえて離さない。
 血塗れの唇が、微かに動く。音声は入っていない。何かを語りかけている。
 私は魅入られたように、ポータブル再生機の小さな画面へと顔を近づけた。何を言っているんだ。息を殺し、耳を澄ませ、画面の向こうの唇の動きを読み取ろうと、鼻先が液晶に触れるほど前のめりになった。

――まさに、その時だった。
 私の背後、現実の蔵の闇の奥から、空気を切り裂いてあの音が聞こえた。

『カチッ』
 
 思考するよりも早く、身体が反応した。
 ガクンッ!
 首の骨が悲鳴を上げるほどの勢いで、私の頭が強制的に下を向いた。顎が胸骨にめり込む。視線は、足元の古い床板の隙間へ釘付けにされる。
 逃げなければならない。叫ばなければならない。
 なのに、肺からヒューヒューと空気が漏れるだけで、手足は鉛のように重く、ピクリとも動かない。
 視界の端、床板の隙間から、何かが這い出してくるのが見えた。
 最初は、ミイラを包む包帯のような、古びた布切れに見えた。だが、違った。
 それは、幾重にも重なり、肥大化し、変色した「人間の舌」だった。
 何十枚、何百枚という舌が、腐った水のような悪臭を放ちながら、床下から溢れ出し、私の足元にまとわりついてくる。
 そして、その舌の表面には、びっしりと、あの半透明の牙が植え付けられていた。
 まるで岩肌を埋め尽くすフジツボのように。不規則に、夥しく、それらが小刻みに震えながら、新たな「供物」を待っている。

突如、口の中に、猛烈な、灼熱のような熱を感じた。
 奥歯のさらに奥。親知らずのあった場所が、内側から急速に「膨張」していく。
 ミシミシ、メキメキッ、と顎の骨が内側から砕かれ、押し広げられる感覚。
 激痛と共に、ドロリとした鉄臭い液体が口内に溢れ出し、喉へと流れ込む。
 私は、自分の意思とは関係なく、気が付くと、右手の指を口の中に突っ込んでいた。
 指先に触れたのは、本来そこにあるはずのない、ザラザラとした硬い感触。
 生えてきている。
 歯茎の皮膚を突き破り、無数の半透明の牙が、私の口内を、喉を、食道を埋め尽くそうとしている。
 あらゆる軟らかい場所から、硬い牙がタケノコのように突き出し、私の口内は「噛み合わせる」ことすら不可能なほどに、鋭利な棘の洞窟へと変貌していく。
 痛い。熱い。苦しい。
 だが、それ以上に、どうしようもない「衝動」が湧き上がってくる。
 抜きたい。この異物を引き抜きたい。
 そして、あの床下にいる舌の塊に、それを捧げなければならないという「衝動」が抑えられない。

その時、ポータブル再生機から、再びあの音がした。
『カチッ』
 呪縛が解けたように、首の力が抜けた。
 私は夢中で蔵を飛び出し、道具も放り出して車に飛び乗った。
 震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。バックミラーに映る自分の顔は、死人のように土気色をしていた。
 大きく口を開けて確認するのが恐ろしい。
 だが、舌の先が触れてしまう。
 喉の奥に、びっしりと生え揃った、あの「鋭利なフジツボ」のような感触に。
 
 数日後、佐藤氏から連絡があった。
「……あの、蔵にあったビデオ」
 彼の声は、電話越しでもわかるほど、異様に湿り気を帯びていた。時折、言葉の合間に「ジャリッ」という、砂か小石を噛み砕くような音が混じる。
「まさか、見ていませんよね……? 最後まで」
 私が沈黙で肯定すると、電話の向こうで、絶望に満ちた水っぽい吐息が漏れた。
「あれは、ただの記録映像じゃないんです。あの『音』自体が、耳から入り込んで人間の肉体を作り替える『種』なんです。一度でもあの音を脳が認識して、呪いが芽吹いてしまったら、もう手遅れなんです。抜いても抜いても、次の朝には新しい牙が肉を割って出てくる」
 佐藤氏の声が、ふっと消えた。代わりに、クチャ、クチャという粘り気のある音が響く。
「わかりますか? 私たちはもう、あの『塊』から一生逃れることはできないのです。……ほら、また聞こえる」

電話越しに、あの乾いた音が鮮明に響いた。
『カチッ』
 
 私の首が、ガクンと下を向く。
 電話が切れて画面が暗くなった手元のスマホの画面が、私の部屋のフローリングの隅を映し出す。
 そこには、いつの間にか「湿った舌」のような肉片が、数枚、床板の隙間から這い出してきていた。

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